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カラ ちゃん

 中川ゼミと自動車部
 
 中川先生と初めてお会いいたのは自動車部でした。
昭和32年に自動車部が創設され、1年先輩の山田さんが先生を部長に迎えたのです(私は昭和34年入部)。先生は名前だけの部長ではなく部員になりきり、心より協力、指導して下さり、そういう中で人柄に引かれゼミに加えていただきました。
 昭和36年6月25日~7月16日 日本一周学生ラリーに九州から三大学が出場(全国で約40大学)、私は第1ブロック(東京ー仙台ー青森ー新潟)でした。スタート地点に集合し驚いたことに応援に来ている大学の部車の立派なこと、映画でしか見たことのない大きなアメリカ車、多くの部員と応援団、そしてタイム計算には当時では最高のタイガー計算機でした。それに比べ我が大学(九州勢を含め)は鉛筆と計算尺とグラフ用紙、この差に愕然、萎縮してしまったことを憶えています。結果はチェッカード紛失で最下位でしたが、第2ブロックで大分に競技車が到着する時に、オンボロ部車ゆえの大問題がおこったのです。当日のゴールは別府観光港、そこから市内をパレードして大分県庁前で知事、市長の出席をいただき、部員全員の参加で歓迎式典を行うことになっていました。それに先立ち部車トラックの荷台に8名を乗せて(改造は陸運局の許可済み)亀川の入り口まで行き、そこで「日本一周学生ラリー歓迎・大分大学」の横断幕で出迎えたのですが、県庁前への帰途オーバーヒートでストップ。うちわで扇いだり、セルを回すがエンジンはかからない。バッテリーも弱り万事休す。歓迎式典の時間が迫り気は焦るばかり。そのうち時間が経過し少し冷えてきたようなので最後の手段として推して押してエンジンをかけたら回った!急いで県庁前に行ったが、式典は終わろうしていました。先生に「一体どうしたんだね(皆さんに失礼ではないかという意味で)」と言われ、ことの次第を話したところウーンと唸って絶句していました。
後日、先生は「これは自動車と言うとより大分大学の恥である」ついては私が市内の会社に寄付をお願いし、それで良い部車を買うことにしよう。辛島君、部の代表として私と一緒に会社廻りをしよう」となりました。その同行で訪問時間の正確さ、受付に始まり会社への丁寧な挨拶と丁重な趣旨説明など人への接し方を実地に学ぶことが出来ました(約20社)。
会社も先生の人柄と話に共感し講演を依頼されたり、また寄付とは別に日野自動車はルノー車1台を寄附して下さいました。寄付金でクラウンを買い、ルノーとあわせ2台の車で大声で言える自動車部へとなったのです。
 また 「九州内ラリーや部活としての遠征には急に金が必要な事態がおこるかもしれないので、私はいつも10万円(当時 初任給1、3万円位)を用意している」と聞かされた時は、部員一同驚きとともに、先生の自動車部と学生に対する熱意と愛情にはただ”感謝”の言葉以外なかったことが想い出されます。
先生は「私の財産は教え子だ」と言っておられましたが、私達も先生の教えが財産であり、大分大学に在籍した価値であると思っています。
 最後に中川ゼミは勉強部門の、ドラッカーの「現代の経営(内容は忘却)」ともう一つ部門「温泉旅行」があり、その二部門が強い絆となって今日まで秀水会が続いているのだと思っています。




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