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イイ さん

 混合文化と日本人の特性
  我々の秀水会も、60数年に亘り、楽しい旅行を続け、お互いの健勝を確認し合い、学生時代の想い出を懐かしみ、今日に至りました。
中川ゼミに入って本当に良かったと思います。
中川先生のすばらしいお人柄にふれ、良い友達にも恵まれ、楽しい学生生活を送ることができて、、諸兄に感謝しています。
平成12年(2000年)3月で会社生活を終え、福岡に自宅に戻り、気ままな生活をはじめました。日頃の生活は、起床後、5分間の柔軟体操をして、朝食後、近くの室見川(白魚漁で有名、塩干狩り、桜、ツツジ、サザンカ、彼岸花群生地等々)の河川敷両岸には各2km程の遊歩道が設置されており、自宅より遊歩道経由で片道4Kの朝・夕計8Kmの散歩を楽しんでいました。
ところが、5年前に軽いヘルニアになり、2週間程度で完治しましたので、距離を片道2K程度に短縮して、朝、夕同じコースを毎日散歩しています。
 かねてより、考古学に興味を持っていましたので、朝日カルチャースクールに入会し、考古学の勉強を始めました。
北部九州地区(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)の遺跡、古墳等をマイクロバスで講師と共に訪れ、現地授業を受ける講座に入り楽しみました。
個人的にも新聞報道を見て、新しい発掘の遺跡、遺物が発見されたら、現地に出向き、現地説明会に参加し、古代ロマンを楽しんで来ました。
1万前の「縄文時代」は移動生活により、食物(食用野菜、クリ、魚、貝、小食物)を採取していたが、老人、幼児にとっては、歩行負担が大変で「定住生活」を求めるようになりました。各地に分散生活していた個々の家族が、一または数か所の適地に集住化し始めました。老人は過去の経験を若者に伝授し、幼児の子守り、祭祝等を行い、若者は、食物の採取に出掛ける形態になりました。
青森県三内丸山遺跡では、大規模なクリの植林を行っています。
「弥生時代」には、定住地に多くの家族が集住するようになり、水田稲作が伝播して来ると同作業が起こり、長(おさ、取りまとめ役)も誕生して来ます。
日本は日本海、対馬海峡という地政学的にも恵まれた防御壁により、外からの侵入を防ぎ、中国、朝鮮からの移民もなく、元 も失敗しています。
逆に遣隋使、遣唐使の派遣で、律令制の導入を図り、律令国家を建設しましたが、律令内容はすべて日本式に改変している。
これらの歴史、文化が重層し、基層となって「日本文化」を形成して来ました。
外国では、文化発展の歴史はルネッサンス(多国の異質文化の吸収)によるが日本は外国の生活様式、料理(特に味覚)等すべてそのまま物まねするのではなく、自分達のスタイルに完全に変換し取り込み、文化を発展させて来ました。
後世の人達は、古代人の英知、習慣を保持、発展させ、後生の文化を開花発展させ、今日があると思います。
 さて、いずれ中川先生にお会いする日(お迎え)も来ますが、これからは日頃の自己健康管理には、さらに留意して余生を大いに楽しみたいと思っています。
諸兄の皆さん、無理をせず頑張って下さい!




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